1.保守主義

 戦後日本は、米国流の「民主」主義制度をあらゆる面で取り入れました。社会の各分野(政治、経済、文化、教育……等々)で、その思想は貫徹されました。すなわち、社会的価値の根幹に「等しさ」と「豊かさ」そして「個人の自由」が据えられたのです。結果的に戦後の高度成長や繁栄がもたらされ、我が国は先進国の仲間入りを果たしました。しかし、この「等しさ」、「豊かさ」、「自由」といった価値を、あるいは「民主」という言葉を信じてそれっきりというのはいかがなものでしょうか。封建時代や戦時中のように「格差」、「貧困」、「抑圧」が蔓延し、今から思えば庶民が大変な苦労をしていた時代なら、確かに大きな価値を持っていたでしょう。私のこれまでの海外体験を踏まえて申し上げるならば、恐らく現代日本は(若干の不況は経験しつつも)、人類史上稀な物質的豊かさと等しさ、個人の自由を手に入れた国であります。そのような社会に暮らす私達が、いまだに「等しさ」、「豊かさ」、「自由」を最高の価値と考えることに、私は疑問を感じます。具体的に言えば、人間「平等に近づけば近づくほど、ほんの少しの差に苛立ち」「豊かさの中での退屈し」「ほんの些細な障害に不自由を感じる」といった逆説に陥るのです。

 例えば、同じマンションで、「うちの亭主は課長なのに、お隣は部長よ」とか「うちがマ-ク2なのにお隣はセルシオ買うのよ」といった調子です。いずれにしても、自由、平等、繁栄、民主といった言葉にもっと距離をおいた方がいいと構えるのが、私の考える保守のスタイルです。

 それでは本題にはいります。「民主」という言葉の本質は一体何でしょうか?民主主義、英語で言えばdemocracyとなりますが、日本語では憲法の三大原則の一つ「国民主権」の中二つの省略形といわれています。 いずれにしても、戦後日本では民主主義と国民主権は密接な関係です。そこで「国民主権」主義は何かと考えますと、文字通り国民大衆に主権があるという考え方です。(千葉県であれば県民主権、印西市であれば市民主権といったところでしょうか)さらに、「主権」という言葉を辞書で引いてみますと、「なにものにも制限されない権力」「無制限の権力」とあります。私はまずこの「主権」という概念に疑問を感じます。なにものにも制限されないまさに無制限の権力が、現在生きている国民(市民、人民)に存するという考えは、戦前の天皇主権と同様誤ったものなのではないでしょうか。この「主権」という言葉自体が問題です。人間は神様ではありません。人間はどこまでいっても不完全な存在に過ぎないと私は考えます。人類の進歩の中で、人間が完全な存在に近づいていく(完全化可能性・パ-フェクトビリテイ)という思想は近代が陥った誤りです。そんなことは、世界の長い歴史が証明しているではありませんか。とにかく、不完全な存在の人間に「主権」を与えるということは、あまりに危険過ぎると私は考えます。

 私は、現実の政治を考えるならば、民主主義それも間接民主制(代議制・議会制民主主義)以外選択肢のないことをあっさりと認めます。しかしながら同時に、過去の死者たちとの対話なしに、民主主義はありえないと確信しています。も少し言えば、現在世代の主権者(国民、市民、消費者…)がつくる世論(要求や欲望の表明)に対しても、政治家は距離をおく覚悟が必要だということです。いずれにしても、死者との対話を通じ、歴史の知惠に学ぶことによってのみ、われわれは現在・未来も含めた“真の輿論”を語ることができると考えます。地方自治の場で、なにがしかの政治的判断や制度の改革を行う際も、地域の伝統や常識に照らし合わせることが、私は保守精神の神髄であると考えます。

●考え方の参考となった文献
オルテガ「大衆の反逆」、  西部 邁「幻像の保守へ」、「大衆への反逆」他、  佐伯啓思「市民とは誰か」  トクヴィル「アメリカの民主主義」、  福田亙存の一連の著作 等。

↑このページのはじめに戻る

←前のページに戻る